2012年10月25日木曜日

Praise The Lord Anyway !!

僕の人生。

晴れの日もあれば、雨の日もあり、

嵐の日もあれば、静寂の日もある。

しかし、どんな日であっても、決して変わらないものがある。

それこそ、創造者である神様、僕の人生のすべてを守り導く方。

そのような素晴らしいお方に守られているから、いつも賛美します。

たとえ、死の陰の中を歩むようなことがあっても、

いつも神様は、僕とともにおられます。

僕の眼には見えなくても、神様から注がれる尽きない愛情は、

いつも僕を取り囲んでいる。だから、だから、

神様、あなたを賛美します。

2012年10月24日水曜日

真実の仕事とは

使徒行伝 20:33-35 JLB

私はお金やぜいたくな衣服をほしいと思ったことなど、ただの一度もありません。  この手、この両手が、どれだけ自分の生活や、いっしょにいた人たちの必要のために働いたかは、よくご存じでしょう。  また、貧しい人たちを助けることでも、常に良い手本となったつもりです。 それは『与えることは受けることよりも幸いである』という、主イエス様のことばが、いつも頭にあったからです。」



僕は現在、無職です。もちろん無収入です。

でも、このような言い方は、この世の基準に合わせています。

神様の視点からは、けっして違うだろうと思うのです。




このパウロの発言にもあるように、

僕の生き方は、お金によるものではありませんでした。

確かに、その都度必要な物があったりして、

お金が無いと生活できなかったりしました。




そう思い返すと、人生の中でお金に振り回されている事が

あまりにも多いなぁと感じます。

しかし、神様の領域にはお金は存在しない。

お金は、人間が創りだしたもの。

このお金によって、人間の人生が決まってしまう程、

お金の存在は、この世の中を支配している。




でも、このお金の支配は、神様を支配できない。

神様は初めから存在されている。

この宇宙を創造し、私たちをも創ってくださり、

そして、生かしてくださる。




私はお金には支配されないが、

神様の熱い思いの中で生かされ、

大きな祝福を受けている。

だから、人生を生きてゆく時に、

その都度、必要な物のすべてを、

神様は備えてくださる。




だから、大丈夫、心配ない。

神様は必要なときに、

僕のするべき仕事を備えてくださる。

お金をも必要なときに

備えてくださり、

生活のすべてを養ってくださる。

それが神様だ。




世の多くの人々は、

今の時代、心のゆとりが無くなり、

お金に支配されている。

多くの債務に悩まされるとき、

人は、神様に助けを求めるゆとりさえ、

無くなってしまう。

それほど、お金の力は、恐ろしいものだ。




だから、僕はお金を信じない。

経済も逼迫しているほど、

多くの人々は、苦しんでいるから、

そう、多くの人々は、お金の問題で苦しんでいる。

だから僕は、神様の素晴らしい福音をお伝えするものとして、

この地上で、許される限り生きてゆく。

それが真実の仕事、

神様に仕える事だ。


2012年10月22日月曜日

最善の方法を選ぶ人生

詩篇 62:1-2 JLB

 私は黙って、神様から救いの手が差し伸べられるのを待ちます。 救うことができるのは神様だけですから。  神様こそ私の岩、私を救うお方、そして私のとりでです。 ですから、私には、困難にぶつかったからといって、おじ気づく理由は何もないのです。




この詩篇を通して、

人生の歩み方のポイントを学べた。





男性は特に、

人生を数十年生きると、

色々な経験を通ってきているので、

後輩たちに語りたがる。





でも、ここの詩篇の作者は、

誰かに「俺の人生はこうだったんだ」なんてことを

語っていない。

ただ、ひらすら

神様からの救いの手を待っている。

これこそ、神様が喜ばれる人生ではないか!





人間の方法を選べば、確かに良い道を選べて、

周りの人々の評価も高く、

多くの人々に受け入れられるのだろう。

しかし、神様が示される道は、

その真逆で、誰にも受け入れられずに、

もしかしたら、殺されるかもしれない。

それほど真剣に生きてゆかなければならない。





でも、神様の道は、

多くの祝福を受けて、注がれて、

豊かな人生を歩めるのだ。

僕は、この世の最善な方法を選ばずに、

救いの手を差し伸ばしてくださる

神様の方法を選びたい。





2012年10月21日日曜日

今、という時だからこそ

コリント人への第一の手紙 15:57-58 JLB


これらすべてのゆえに、どう神様に感謝したらよいでしょう。 神様は、主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださるのです。
そこで愛する皆さん、このように将来の勝利は確実なのですから、しっかり立って、動揺することなく、いつも、主の働きに熱心に励みなさい。 なぜなら、復活は確かであり、主のための働きが、決してむだ骨に終わらないことを、あなたがたは知っているからです。





天国へ行ける権利が与えられた私たちは、

天国に住むかのような生活も与えられています。

しかし、あまりにも悪の攻勢があるために、

神様からの真理に目が留められないまま、

人生を終わらせてしまう人々も少なくありません。

ですから、今を生きる私たちは、更に、

神様を求めてゆきましょう。

この地球は、すっかり汚れてしまいました。

神様の時は、すぐそこに近づいていますから。

2012年10月18日木曜日

近くにおられる間に

イザヤ書 55:6-10 JLB


尋ねることのできる間に神様を探し求めなさい。 近くにおられる間に呼び求めなさい。  悪事を捨て、悪いことをしようとする思いすら、きっぱり捨てなさい。 愛していただくために、主のもとへ帰りなさい。 私たちの神様のところへ帰りなさい。 何もかも赦してくださいます。
わたしの計画はおまえたちの考えつく計画とは違い、わたしの思いはおまえたちの思いと同じではない。  天が地より高いように、わたしの道はおまえたちの道より高く、わたしの思いはおまえたちの思いより高い。
雨や雪は天から降って来て地をうるおし、穀物を成長させ、農夫には種を、空腹な人にはパンを与える。 




自分の事ばかり考えると、

神様の世界が見えなくなってしまいます。

まるで、布団の中に顔を出さないような状況ですね。

昼になって、天候も晴れやか。

しかし、顔を出さないものだから、

いつまでも夜だと思い込んでしまう。




神様は紳士なので、

自分から気が付かせるように、

ちょっとしたエッセンスを与えてくださる。

そうすることで、自分自身が、

布団から顔を出すように導いてくださるのだ。




気がついたら、あれ?昼じゃん、みたいな(汗)




神様が計画された道に従って生きてゆくほうが、

一番シアワセなのは、自分が一番知っているのに、

そんな事も気が付かないのか僕は。




風と共にやって来られる神様と、

心ゆくまで、楽しみ喜びたい、

そのなかで、神様に自分の事を話そう。

そうすれば、心優しい方は、

僕の心の中に語りかけてくださる。




さあ、明日の夕からのひとときが、

楽しい時間だ。

神様に期待を込めて、

今日はぐっすり眠りたい。

あ、朝には起きますよ、もちろん!(笑)

2012年10月17日水曜日

Hallelujah☆GardenTV 2012年10月17日号


なにを血迷ったか、突然動画で語ってみた号

最後の住まい



多くの日本人は、死んた後の住まいとして、

霊的には極楽浄土、肉体的には石のお墓、

というような感覚であるように、

実は死については、非常に曖昧な人も少なくない。

もしかしたら、日本には数少ないキリスト教を信仰している人でさえも、

死について、曖昧な人が多いのが実情である。

それほど、死について、世に生きる人々にとっては

タブーな話なのかも知れない。




僕が若い頃は、お墓という存在は偶像のようであり、

先祖に護っていただきたいからこそ、

高価な投資をして立派なお墓を立てる。

非常に宗教的であり、また、大きなビジネスだなぁ、と。

しかし、大人になったいま、改めてお墓のことを考えてみると、

なんと愚かな思考だったことに気がついた。




最愛の人が亡くなった時、

遺族は悲しみを何処に持っていけばよいのだろうか?

「人間、死んだら何ものこらないさ」

ある人が言った。

本当にそうなのだろうか?

人として生きてきて、喜び、また悲しみ、

人生の四季を経験し、また、なんらかの影響を周りの人々に与えてきた、

最愛の人が無くなったら、なんにものこらないのか?




いや、そんなことはないだろう。

形には残らないものが確実にあり、

思い出が沢山あるのだ。




亡くなってしまった後には、

大抵は、決まった通りの順序で、

お葬式があり、お墓に入る。

やはり、決まった石のお墓。



ここに、生きてきた証し、

故人の人生は観えない。

これはなにか悲しくはないだろうか?



僕は、いろんな方々の死を観させていただいたし、

お葬式にも、参列させていただいた。

一番、悲しいことは、

決まったお葬式の流れで、

決まった故人の略歴を話し、

決まったお経を唱えて、

参列者は御坊様の説法を

上の空で聞いていること。



もっと故人を偲ぶ形があると思うのだ。

この「光り墓」は、

とても個性的でもあり、

愛する人を失くした遺族の方々の慰めになる思い、

宣伝させていただくことにした。




どうか、動画をご覧になっていただき、

供養について、考えていただきたい。

本当の供養とは、

故人の為ではなく、

自分が生きてゆくためのものだと、

僕は思っている。






2012年10月15日月曜日

繋がっているから安心?

ルカによる福音書 6:36-38 JLB

 天の父と同じように、あわれみ深い者になりなさい。  人のあら捜しをしたり、悪口を言ったりしてはいけません。 自分もそうされないためです。 人には広い心で接しなさい。 そうすれば、彼らも同じようにしてくれるでしょう。  与えなさい。 そうすれば与えられます。 彼らは、ますに押し込んだり、揺すり入れたりしてたっぷり量り、あふれるばかりにして返してくれます。 自分が量るそのはかりで、自分も量り返されるのです。




私たちの国籍は天にあり、

私たちは天の父と繋がっている。

だから、

天の父の御心を知っているのは当然のことであり、

天の父の言葉も、当然知っている。




というのが本当の意味でのクリスチャンなのだが。

僕は、どうだろうか?・・・・・・

日々、反省。日々、悔改め。




主よ、今日もわたしを憐れんでください。

そして明日も、主によって造り直された心を持って

歩めますように、導いてください。


2012年10月14日日曜日

そんな悲しいオチをつけるなよ

マルコによる福音書 8:35-36 JLB


いのちを守ることにばかり、あくせくしていたら、かえってそれを失います。 わたしと、この神のすばらしい知らせとのためにいのちを投げ出す者だけが、生きることの意味をほんとうに知るのです。たとい全世界を自分のものにしても、いのちを失ったら、何の得があるでしょう。 




多くの人々が、

自分の生き方を守ろうと必死になっている。

特に地方に住む者にとっては、

職場が無くなったり、

自分の存在自体が危うくなったりする事が多いので、

これはまさに死活問題である。




もしかしたら、教会という組織が、

守りの姿勢に入っているとすれば、

主イエスの語られた言葉を

非常に重く受け止めなければならない。




主イエスの周りを囲んでいた多くの人々の中に、

確実に居たのが、パリサイ派と律法学者だ。

主イエスの生きていた時代は、

現実問題としてローマ帝国に支配されていたのだが、

パリサイ派も律法学者も、

ユダヤ人が昔から信じてきていたものを

宗教活動として利用し、生活をしていたわけだ。




そう考えると、今の時代と全く同じだと、

自分の心にすんなり入ってきた。

どのような地位の人々も、

いつの日か、自分の地位を明け渡す時がやってくる。

そう思えば、今の地位はなんと弱くてちっぽけなものではないだろうか。




神は、そのちっぽけなものから、解放してくださる。

自分が必死に守り抜いてきているものは、

じつは一番厄介なもので、

神との距離を引き離してしまうもの、

というオチをつけては、

なんともったいない人生を歩んでいないだろうか。

You Are My All In All




どんなことがあっても、

神様がわたしのすべてであって、

わたしを守り導く。

それほど、心優しい方。

あなたを信頼します。

You Are My All In All

2012年10月13日土曜日

なによりも強い絆

ローマ人への手紙 8:38-39 JLB

神様の愛から私たちを引き離せるものは何一つない、と確信しています。 死にもいのちにも、そんなことはできません。 御使いにもできません。 地獄の全勢力を結集しても、神様の愛から遠ざけることはできません。 今日の恐れも、明日の不安も同様です。  あるいは、私たちがどこにいようと――空高くのぼっても、海の底深くもぐっても――私たちの主キリスト・イエスの死によってはっきり示された神様の愛から、私たちを引き離せるものは、何一つありません。



正直言って、辛い事だらけです。

なにかと壁がある感じで、

前へも、後ろへも、

右へも、左へも、

進めていないように感じてます。



そんな中にあって、

今日の聖書の言葉に目が留まった。



「神様の愛から私たちを
引き離せるものは何一つ無い」



これってすごくね!?

いやぁ、前から沢山体験してることなのに、

忘れちゃうのでしょうね。



神様の深い恵み、計り知ることのない恵みを

いつも、体験できる事は本当に感謝です。



神様から頂いている愛情を、

いつも体験できて、

そして証し出来る環境に居られることも、

本当に感謝!

こころから、愛をありがとうと、神様あなたに叫びたい!

2012年10月12日金曜日

喜びを満たそう

歴代志上 16:31-34 JLB


 天は喜び、地は楽しめ。
全世界の国民は、『神様が世界の王だ』と言え。
 大海は鳴りとどろけ。
野とその中にあるものは喜び踊れ。
 森の木々も、神様の前で喜び歌え。
神様が地をさばきに来られるからだ。
 神様に感謝せよ。
その恵みは深く、愛といつくしみは限りない。



神様の領域を広げよう。

この世界は、闇に包まれているけれども、

創造主を知っている私達が心からの賛美を捧げれば、

神様は、神様と私達の間に豊かに存在されて、

私達も神様の素晴らしい輝きに照らされる。

神様は、そのような世界を望まれているから。

2012年10月10日水曜日

ただ安息を守る

マタイによる福音書 12:5-8 JLB

また、神殿で奉仕をする祭司は、安息日に働いてもよい、と聖書に書いてあるのを、読んだことがないのですか。  ことわっておきますが、このわたしは、神殿よりもずっと偉大なのです。  もしあなたがたが、『わたしは供え物を受けるより、あなたがたにあわれみ深くなってほしいのです』という聖書のことばをよく理解していたら、罪もない人たちを、とがめたりはしなかったはずです。  安息日といえども、天から来たわたしの支配下にあるのですから。」


十戒で一番大切な教えはなんだろうか。

神は私達に、細かい注文を付けないお方だ。

人間として当たり前のような守りごとがある中で、

一つ、大きな戒めを私達に与えた。

それこそ聖なる安息を守りなさい、ということである。



昨年の3月以降の私が経験した導かれ方は、

非常にインパクトのあるものだった。

神様の戒めは非常にシンプルである。

私たちは、もっと神様の御前に、

ゆったりと休むこと。

神様を心から信頼することを求めておられる。

宗教的な、組織や活動は神様を悲しませる。

神様が聖なる日と決められた時間を、

心ゆくまで楽しみ喜ぼう。

2012年10月9日火曜日

重荷を負う者よ

マタイによる福音書 11:28-30 JLB

重いくびきを負って働かされ、疲れはてている人たちよ。 さあ、わたしのところに来なさい。 あなたがたを休ませてあげましょう。  わたしはやさしく、謙そんな者ですから、それこそ負いやすいわたしのくびきを、わたしといっしょに負って、わたしの教えを受けなさい。 そうすれば、あなたがたのたましいは安らかになります。  わたしが与えるのは、軽い荷物だけだからです。




マタイの福音書を初めて読んだときは、わからない事だらけで、

主イエスとは何者だろう?という感覚でした。

しかし今は、主イエスの愛情を深く感じています。

彼こそ素晴らしい救い主であり、癒し主。

そして私の贖い主。

主イエスこそ、まことの神様です。

2012年10月8日月曜日

No More Night


彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。

もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。

なぜなら、以前のものが、

もはや過ぎ去ったからである。

(ヨハネの黙示録21章4節)



現代は癒しが注目されているのだが、

残念な事に、一時的な慰めにしかならない。

神が後の時代に、私達の為に与えられるものは、

非常に尊く、価値のあるもの。

完全なものである。

だから、この終わりの時代を耐え忍んでいきてゆきたい。

待ち望むこと

イザヤ書 40:28-31 JLB

まだわからないのですか。 全世界を造った永遠の神様は、絶対に疲れたり、ふらついたりしません。 神様の理解の深さを推測できる者は、一人もいません。  神様は疲れた者に力を、弱い者に活力を与えます。  若い人もくたくたになり、若い男もまいってしまいます。  しかし神様を待ち望む者は、新しい力がみなぎり、わしのように翼を張って舞い上がります。 いくら走っても疲れず、どんなに歩いても息切れしません。



待ち望むことが出来ない環境にいたら、

きっと、自らの人生を絶っていたかもしれない。

それほど人生には、希望が必要である。




しかし現状を観るならば、本当に多くの人々が、

希望を見失い、自死を選んでいる。

もしくは、惰性で生きる道を選ぶ人も少なくない。




人間、希望を持てずに生きると、

心も貧しくなってしまう。

だから、みんなに言いたい。

どうか、希望を持ち続けてほしい。

決してあきらめないでください。

あなたの人生は、あなただけのものではないから。




僕は、神様と出会う前は、非常に貧しい心を持っていました。

イジメられる環境の中に長く生きていると、

ほんとうに希望を持つことさえも許されないと

思い込んでしまうのです。

周りの人々の声が、そうさせるのです。




死を選ぼうとしたこともあった。

でも、生きていた。

僕の人生は、神様によって守られた。

今は、就職難で、本当に辛い日々を過ごしているのだが、

神様が守ってくださっている。

成人男子が、収入が全く無くて、

こうして生きているのは、奇跡かもしれません。




再就職のチャンスも、

すべて神様の御手の中にありますから。

僕は、あきらめずに

神様を信頼し続けます。

2012年10月5日金曜日

真実の架け橋

テモテヘの第一の手紙 2:4-5 JLB


神様はすべての人が救われて、真理を理解するに至ることを、切に望んでおられるからです。  その真理とは、こうです。 神と人間とは、それぞれ別の岸に立っています。 そして、人となられたキリスト・イエスがその間に立ち、ご自分のいのちを、全人類のために差し出すことによって、両者の橋渡しをされたのです。
これこそ、神様が時にかなって私たちに示された教えにほかなりません。



主イエスの存在は、ただの歴史上の偉人だけに留まらず、

創造主である神と、私達人間の間に立つ

まことの救い主であるということだ。



創世記に詳しく書かれているのだが、

(読者の皆様は是非、聖書の中にある創世記を読んでいただきたい。)

アダムは神によって形造られた。

神は、そのアダムを心から愛おしく思っていたし、

アダムも、神様が素晴らしい世界を自分のために

備えて下さった事を、心から喜んでいた。

アダムにとって、神はもっとも必要な存在であり、助け主だった。




心から信頼して、いつもアダムは満たされていた。

彼の全身は、神の愛で包まれており、神の栄光で光り輝いていた。




さて、毎日の生活は神が備えて下さった園の中にある木から

必要な果実を食べられた。

神の愛情があまりにもすばらしいので、

アダムはいつも満足であり、寒さや寂しさを感じる事は無かった。





聖なる日には、神が風と共にやってこられ、

神はアダムを可愛がり、

アダムは神を心から慕い、

その愛は栄光で輝いていた。
 




アダムは、いつも必要を満たされ、いつも喜んでいたのだが、

ある時、神は、アダムの歩みを見て、

アダムがひとりでずぅっと居ることは良くないと感じていた。





そこで、アダムに眠りを与えられ、

彼が深く眠っている間に、

アダムにとって必要な女性を創造されたのだ。





アダムは一人でも生きて行ける、しかし、神の目から見れば、

アダムがこの地上で生きてゆくために、

アダムと神だけの信頼の交わりだけでは無く、

もっと、愛の溢れる世界を、神は望んでおられた。





アダムは目を覚まし、近くに女性がいた事で、

改めて神からのサプライズに喜び踊った。

己の骨と肉から生まれた女性を

心から喜び、名前をエバ(イブ)と付けたのである。






さて、ある時、

神が創造されたアダムとエバを遠くから観ている者がいた。

それは、遠い昔、

神に愛され、神が喜ぶ音楽を奏でる天使がいたのだが、

その天使はあるとき、自分が神のようにありたい、と

思うようになった。






天国では、創造者である神ご自身が、

唯一まことであったにも関わらず、

音楽家であった天使の暴動により

天国は大変な事態になってしまった。





そこで神は、音楽を奏でる天使と、それに付いていた者たちを

天国から追放したのだった。

その者が、ずうっとアダムとエバを妬む心で観ていた。





彼は、復讐のチャンスを伺っていたのだ。

神が創造した世界を破壊するために、

大きな計画を実効したのだった。

彼は、蛇となってイブに近づいて行き、耳元で囁いた。





イブは初めて聞く声に戸惑いながらも、

神との約束を思い出し、蛇に語った。

イブはまんまと、蛇の姿でやってきた彼の声に騙され、

神との約束を破ってしまった。





その途端、

アダムとイブが身にまとっていた神様の愛の栄光が消えてしまい、

二人は裸になってしまった。





もう以前のようには戻れなくなった二人は、

近くにあった葉っぱで、なんとか裸を隠した。





そんな時に神様は風を共に降りてこられたのだが、

愛が消えてしまい、色あせてしまった園に

アダムとエバの姿が無い、

神は全力を使い、アダムとエバを探した。

まるで宝物を無くしてしまった主人のように。





アダムとエバ(らしき人間?)を見つけたのだが、

その体には神の愛と栄光が削がれ、

真っ裸になってしまった二人の人間がいた。





もうどうすることも出来ない。

神があまりにも聖なるお方であり、

ここにいるアダムとエバは、

あまりにも罪で満ちていたからだ。





そこで神は、

新しい計画を二人に語った。

後の時代に必ずや、人間と神の架け橋となる存在が現れることを、

神は約束したのだった。




すっかり汚れてしまったアダムとイブは、

この園から出てゆかなければならない。

神は、この二人の為に、

この厳しい世の中を生きてゆくために安全な

動物の毛皮で出来た衣を着させ、

エデンの園から旅立たせた。





そして、数千年後。

神と私達人間を繋ぎ合わせる神のひとり子イエスを

この地上に使わされたのである。





あのアダムがエデンの園の中で、

神の栄光と愛に包まれていた時のように、

今を生きる私達一人一人を、そのようにしたいと、

神様ご自身が、心から望んでおられるのである。

選ばれたものとして

テモテヘの第一の手紙 1:15-16 JLB

「キリスト・イエスは、罪人を救うために、この世に来てくださった」ということばは真実です。 このことをだれもが知ってくれるようにと、心から願っています。 私は、その罪人の中でも首領格の人間です。  それにもかかわらず、神様は私をあわれんでくださいました。 キリスト・イエスは、どうにも手がつけられない罪人に対してさえ、自らの忍耐深さを教えようと、私みたいな者を選ばれたのです。 それによって、だれにも永遠のいのちを持つ希望が与えられるのです。 




あぁ、あらためて

自分という存在が、

神様によって選ばれた者であることに

感謝。




自分は、完璧な存在ではないし、

頭脳明晰でもない。

高校入試の際の、合計点数はなんと

「36点」・・・

凄すぎるほど、

義務教育で受けた勉強が出来ない

とっても残念な青年でした。




そんな僕を、神様は

救ってくださったのです!!!




神様が導いて下さった道は、

決して簡単な道ではなかったけど、

こんな僕を愛してくださっているからこそ、

あえて通してくださった。




そう感じている。

うむ、強く感じている。




苦しいことも確かにあったし、

もしかしたら、今も苦しい?

そうかもしれないけど、

でも、僕に対する神様の愛は、

強烈に注がれている。

ほんとうに感謝としか言いようがない。




確かに教育に関しては、

僕は頭がホワホワしているので、

うまいことは言えませんが、

神様から頂いた

数々の恵みに関しては

自身を持って言える!

2012年10月2日火曜日

愛のうちに生きてほしい

ヨハネの第一の手紙 4:15-16 JLB


イエス様を神の子と信じ、それをはっきり告白する人のうちには、神様が生きておられます。 そして、その人も神様と共に歩んでいると言えるのです。
私たちは、どんなに神様に愛されているか、知っています。 現に、神様の愛を身近に感じ、また、私たちを心から愛すると言われた神様を、信じているからです。 神様は愛です。 愛のうちに生きる人は神様と共に生きるのであり、神様もまた、その人のうちに生きておられるのです。 




イエス様の大きな愛の中に生かされて

ほんとうに感謝です。

確かに、日常生活は辛い事、苦しい事の方が

ものすごく多いような気がしますが、

すべての悩みをイエス様に持って行っているし

イエス様の目は、僕の歩む人生を

すべてお見通し、

だから安心できる。





今日の聖書の言葉を読んで、

何気に、こう思って、こんな風に書き綴りましたけど、

なんかの歌に似ている!!

そう、これって、とあるゴスペルの歌詞みたいだ~!!

びっくり!!





思い返せば、高校生の頃に、あの歌を聞いて、

ゴスペルを歌ってみたい!ってゆう、気持ちが強くなったんだよなぁ、

なんて、思いにふけっていると、睡眠時間が無くなりそう。






明日、10月3日は、

B市の学校で行われる、芸術の授業で

ゴスペル・ワークショップをお願いされて、

ピアニスト兼ワークショップ指導します。

会場は中学校ですけど、

隣の小学校からも生徒がやってくるらしいので、

非常に楽しみにしております。




僕が学生の頃に初めてゴスペルを聴いた時のようなショックを

明日出会う学生たちにも味わってもらえたら嬉しいです。

純粋な気持ちで、歌というものに触れて、

楽しんでいただきたい。

そして、多感な子供たちが

本当の愛のうちに生きてほしいなと願います。

2012年10月1日月曜日

チムグリサのこころ

中国新聞 2012-10-01コラムより抜粋

チムグリサとは沖縄の古い方言だ。「肝苦(チム グリ)さ」と書く。人のつらさ、苦しみをわが身 のように感じることをいう。「かわいそう」より も「お気の毒に」よりも、もっとそばで深く相手 を思うこと……




なんと美しい言葉だろう、チムグリサ。

本州にはこのような表現はあるのだろうか?

残念ながら北海道には無い。




僕が感じる沖縄は、平和を強く願う人々が多い。

それはやはり、昔から悲しい事が、あまりにも多過ぎる気がするから。

北海道に住む僕は、沖縄へ行ったことが無いのですが、

昔は小さな島国で、今よりもきっと幸せに暮らしていた、

というイメージがある。




現代はどうだろう。

もし、自分の住んでいる隣に、米軍の基地があったら?

人の会話も掻き消すほどの騒音や、米兵による事件。

毎日の暮らしを脅かされている環境に

さらに問題が多い物が運ばれてしまった。




このような情況を思う時に
沖縄の人々の上に、軍事の力ではなく、

神様からの平和と慰めがあるように、

祈る自分がある。




日本の南と北で、大きなリバイバルが起きると、

誰かが言っているのだが、
これはきっと人数の問題じゃない。




聖書では、神様を信じている

たった一人の人に、神様は目を留めて

語られ、導くという記事が多い。

であれば、たった一人の忠実な下僕が、

神様の御前で、沖縄と沖縄の人々の為に祈っていたら?

これはもう、既にリバイバルではないだろうか?





さて、チムグリサという言葉を思う時に、

人間の思うこと、考えること以上に、働かれる神様を思う。

終末の時代の最中、きっと神様は忍耐に忍耐を重ね、

その時を待っておられる事だろう。

ノアの時代の時のように、方舟の完成の時は近い。

断捨離キャンペーン中

まだまだ転居の為の作業進行中。 完全なる転居作業終了は、 26日の旧住居の鍵の返納で幕を閉じます。 その前に、いろいろと処分するものが沢山あって、 今日は一番大きいモノを引き取っていただけました。 聖書の中の一節に 『地上では旅人であり寄留者である』という言葉のとおり、 自分自身...