2012年2月13日月曜日

あいをこめる



もし僕が、なにかを作る者としよう。

例えば・・・お菓子類、ケーキとか。

味やデザインに拘った、ステキなケーキが完成されたとしよう。


そのケーキは人気が出てきて、お客のリピートも凄くて、

大ヒット商品になって、

さぁ、生産が追いつかなくなってきた。

このケーキの生みの親だから、やっぱり初めから持っている気持ちで、

商品を提供したいのだが、、。


一品でも多く、お客様のもとにお届けしたいから、従業員を雇おうと考えた。

さて、毎日忙しいなかで、即戦力になる従業員も増えて、

ケーキの生産は、2倍、3倍に増え、ようやく需要と供給のバランスがついてきた。

しかし、どこかが変だ。なにかが、おかしい、、、。

初めのうちは、愛情が込められて、祈りが込められて、出荷していったものだったが、

いつの間にか、愛情よりも生産性、祈りよりも、商品の名を高める、

そういった心に変わってしまった。


初めの気持ちは、シンプルで、確かに喜ばれるものであった。

でも、もうすっかり、変わってしまったのだった。

こんな、たとえ話を思い起こさせられたのは、

ちょっとした物事が、最近あったからだ。


人間は、弱く、どうしても自分を守ろうとしてしまう、愚かな生き物だとおもう。

まるで、アダムとエバが、葉っぱで身体を隠したように。。。


キリストの身体の中に、専門家が入ってくると、

その身体は専門家のものになってしまう。

キリストの身体の中に、ビジネスマンが入ってくると、

その身体はビジネスマンのものになってしまう。

キリストの身体の中に、教育者が入ってくると、

その身体は教育者のものになってしまう。

それほど、キリストの身体は、繊細なのである。


もし私が、何かの専門的な意見を、キリストの身体の中で発言するとき、

わたしの意見が、キリストを追い出しているのではないだろうか。

そういった些細な物事が、キリストの身体の中で、

数え切れないほどあるんじゃないかと、

この世界に問いたいのである。


僕は、何者だろう? そして、あなたは何者だろう?

ただシンプルに、愛を込めて、生きてゆきたい。

生産性を求めて生きることは、良いことではあるが、最善策ではない。

美味しいケーキは、みんなに我慢してもらって。

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