もし僕が、なにかを作る者としよう。
例えば・・・お菓子類、ケーキとか。
味やデザインに拘った、ステキなケーキが完成されたとしよう。
そのケーキは人気が出てきて、お客のリピートも凄くて、
大ヒット商品になって、
さぁ、生産が追いつかなくなってきた。
このケーキの生みの親だから、やっぱり初めから持っている気持ちで、
商品を提供したいのだが、、。
一品でも多く、お客様のもとにお届けしたいから、従業員を雇おうと考えた。
さて、毎日忙しいなかで、即戦力になる従業員も増えて、
ケーキの生産は、2倍、3倍に増え、ようやく需要と供給のバランスがついてきた。
しかし、どこかが変だ。なにかが、おかしい、、、。
初めのうちは、愛情が込められて、祈りが込められて、出荷していったものだったが、
いつの間にか、愛情よりも生産性、祈りよりも、商品の名を高める、
そういった心に変わってしまった。
初めの気持ちは、シンプルで、確かに喜ばれるものであった。
でも、もうすっかり、変わってしまったのだった。
こんな、たとえ話を思い起こさせられたのは、
ちょっとした物事が、最近あったからだ。
人間は、弱く、どうしても自分を守ろうとしてしまう、愚かな生き物だとおもう。
まるで、アダムとエバが、葉っぱで身体を隠したように。。。
キリストの身体の中に、専門家が入ってくると、
その身体は専門家のものになってしまう。
キリストの身体の中に、ビジネスマンが入ってくると、
その身体はビジネスマンのものになってしまう。
キリストの身体の中に、教育者が入ってくると、
その身体は教育者のものになってしまう。
それほど、キリストの身体は、繊細なのである。
もし私が、何かの専門的な意見を、キリストの身体の中で発言するとき、
わたしの意見が、キリストを追い出しているのではないだろうか。
そういった些細な物事が、キリストの身体の中で、
数え切れないほどあるんじゃないかと、
この世界に問いたいのである。
僕は、何者だろう? そして、あなたは何者だろう?
ただシンプルに、愛を込めて、生きてゆきたい。
生産性を求めて生きることは、良いことではあるが、最善策ではない。
美味しいケーキは、みんなに我慢してもらって。
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