2012年11月24日土曜日

愛のキャッチボール


小学生の頃、体育の時間だったか、学校にあった革製のボールが

顔面に大当たりして、頬が真っ赤っ赤に腫れ上がった、

という思い出がある。

当然、痛いやらびっくりしたやらで、半べそをかいた。

(きっとあの時から、頭が悪くなったのかもしれない。笑)



知らない間に、大人と呼ばれ、一般社会に出るようになってから、

生まれも育ちも異なる大人たちと一緒に仕事を熟すようになり、

いろいろな事を学ばされた。



私たち人間は、他の生き物とは違い、言葉という形の無い道具を持ち、

現在も言葉を巧みに駆使しこの現代を生きている。

反面、社会の片隅で生きている人々は、

言葉を上手に使えない人も少なくない。



神様が私たちに与えられた言葉は、本当であるならば、神様を賛美し、

愛の言葉を語るように創造されたのだが、この社会を観るならば、

多くの人々は、憎しみや妬み、不満等など、

そのような言葉を発する人の近くに居るだけで、

具合が悪くなるような、そのような空気を感じる。



20年ほど前の話、とあるレストランがお気に入りで、

そちらの町へ訪問する機会があれば、

必ずと言って良い程、そのお店に寄って食事をしていた。



しかし、ある時、いつものようにお店へ行き、食事をしていると、

なにやら、何かが違う、という感覚になり、

ふっと後ろの席に座っている方々の話に

意識をもってゆくと、なにか非常に雰囲気の悪い会話をしていた、

という事が思い出された。



せっかく素敵な環境に身を置いているのに、

心の中は誰かに対しての不満でいっぱい。

そんな人々が多いのかなぁ、なんてもったいなぃ。

という気持ちでお店を出た記憶があります。



ゴスペルを歌うことで難しいのは、

経験もしたことのないような事を、歌で表現すること。

でも、なんとか頑張って表現しようとしている人々も少なくない。

「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」 という言葉があるが、

決して、そのような表現者にはなってもらいたくない。

それは単なるパフォーマーでしかない。



そう、小学生のあのボールの痛い思い出は、

コミュニケーションを学ぶに調度良い機会だったのかもしれない。

わたしたちは、相手に言葉というボールを投げるのだが、

その投げ方、そして言葉を受け取る側の、心を知る必要がある。



自分自身が投げるボールは、豪速球ではないだろうか?

相手に対して、キツイ言葉ではなかったか?

今のボールは、硬式野球のボールか? それともゴムボール?

自分が今まで投げ続けてきた数々のボールは、

相手が受け取れるような形のボールだったのだろうか?



ワーシップソングを歌う者の一人として、

神様への愛の捧げものと言っておきながら、

なんらかの技術に頼っていないだろうか?

自己点検が常に必要である。



小さい子供に、優しくボールを投げるように、

そのような心で、ボールを投げられるものでありたいし、

神様へPraise Youと賛美したい。

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