サムエル記上 2:12-17, 27-34 JLB
ところで、エリの息子たちは、神様をないがしろにする、ならず者でした。 いけにえをささげている人を見ると、必ず召使を一人やるのです。 そして、いけにえの動物の肉が煮えていると、その召使が三つ又の肉刺しを大なべの中に突き刺し、この分はみなエリの息子のものだと宣告したのです。 彼らは、いけにえをささげて神様を礼拝する、シロ詣でのイスラエル人相手に、だれかれの区別なく、こんな態度をとっていました。 時には、祭壇で脂肪を焼く儀式が行なわれないうちから、例の召使をやって、生の肉をよこせと言うことがありました。 焼き肉にして食べるためです。 いけにえをささげている人が、「いくらでもお取りになってけっこうです。 しかし、まず〔おきてどおり〕脂肪をすっかり焼いてしまわなければなりません」と答えると、使いの者はこう言い返すのでした。 「いや、たった今ほしいんだ。 つべこべ言うなら、腕ずくでももらうぞ。」 こんなふうに、この若い連中は、神様の前に非常に大きな罪を犯したのです。 人々が神様にささげた物を踏みにじるようなまねをしたからです。
ある日、一人の預言者が来て、エリに神様のお告げを伝えました。「イスラエル国民がエジプトで奴隷だった時、わたしははっきり力を示したではないか。 そして、並み居る兄弟同胞の中からおまえの先祖レビを選んで、祭司としたのではなかったか。 その務めは、わたしの祭壇でいけにえをささげ、香をたき、祭司の衣服を着けて仕えることだった。 わたしは、おまえたち祭司にも、いけにえのささげ物をあてがってやったではないか。 それなのに、どうして、ささげ物を一人占めしようとするのか。 わたしよりも息子のほうが大事なのか。 よくも親子して、ささげ物の特上品で肥え太ったものだ。 それゆえ、イスラエルの神であるわたしは、こう宣言する。 レビ部族の一門であるおまえの家系が常に祭司となる、と約束したのは確かだが、今や、それがいつまでも続くと考えたりしたら、大まちがいだぞ。 わたしは、敬ってくれる者だけを重んじる。 わたしを軽視する者は、こちらでも軽視しよう。 よいか、おまえの家系は断絶するのだ。 これ以上、祭司を務めるには及ばん。 家族全員、寿命を全うせずに死ぬのだ。 年老いる者など一人もいない。 おまえらは、わたしが国民に授ける繁栄をうらやむだろう。 おまえの一族は苦難と窮乏に陥る。 だれ一人、長生きできない。 かろうじて生き残った者も、悲嘆にくれて日を過ごす。 子供たちは、剣によって殺されるのだ。 わたしのことばに偽りがないことを見せてやろうか。 そうだ、二人の息子ホフニとピネハスは、同じ日に死ぬことになる。
昔も今も、美味しいものがあると、それに飛びつき、
お腹いっぱいに喰らい、そしてある程度の時間が過ぎれば、
美味しいものを野獣の様に探し回る。
それこそまさに、レビの息子ように、毎日、同じことを繰り替えす。
僕達は、常日頃、神様へ賛美の歌を歌い、
喜びと感謝の心で満ち溢れているのだが、
一方、賛美を「美味しそうな肉」のように扱う人々がいることも、
現実問題として、受け入れなければならない。
その多くは、神様が聖なるお方であることを知らない人々。
クリスチャンと呼ばれていても、呼ばれていなくてもだ。
僕自身は、神様によって、既存のキリスト教会から、
ピックアップされて、今は神様の豊かな祝福を受けている。
今までは自分自身、食生活において、当たり前の様に、
肉を食べる機会が多かったのだが、
今は、その肉食生活から開放されて、
今では、ほとんど菜食主義に近い生き方をしている。
言っておくが、決してベジタリアンやビーガンを意識している訳ではない。
おかげで、以前よりも、霊的に敏感になってきていて、
神様の御心や、御言葉の意味を理解出来るようになってきた。
だからこそ、ここで発言したい。
神様へのささげものとして、賛美を歌うのであれば、
ゴスペルを宣教の道具として使うことは、
神様の前に大きな罪を犯していることを知ってほしい。
その影響故、多くの神様を知らない人々を、路頭に迷わせていることを、
キリスト教界は悔い改めるべきだ。
祭司エリの息子たちは、
小さいころから父親の祭司の務めを見ていたにも関わらず、
神様を蔑ろにしてきた。
これは最も重要であり、私たちは注目しなければならない。
どうか、もうこれ以上、 キリスト教界はゴスペルを
「美味しい肉」のように取り扱ってはいけない!!
「ある日、一人の預言者がやってきて・・」
人生が楽しく充実し、最高に幸せ~って思っている最中、
あなたの目の前に、神様が愛する預言者を遣わすことでしょう。
そして、あなたに厳しい言葉を置いてゆくことでしょう。
しかし、あなたは気がつくのでしょうか?
すでに終わりの時代です。
この先になにがありますか?
神様の御声を聞かなくてはならない。
人の声、教会の声、ゴスペルの指導者の声、メンバーの声、
いろいろな人々の声を聞いて、もしかしたら皆さんは、
「あぁ、皆に支えられて、本当に感謝だな」とか
思って、本当に必要な神様の声を聞かなかったら、
あなたの信仰は、真実ではない。
この終わりの時代だからこそ、
真剣に創造者を求めてゆきましょう。
あなたを母の身体から出してくださった天の父を見上げてください。