2012年10月17日水曜日

最後の住まい



多くの日本人は、死んた後の住まいとして、

霊的には極楽浄土、肉体的には石のお墓、

というような感覚であるように、

実は死については、非常に曖昧な人も少なくない。

もしかしたら、日本には数少ないキリスト教を信仰している人でさえも、

死について、曖昧な人が多いのが実情である。

それほど、死について、世に生きる人々にとっては

タブーな話なのかも知れない。




僕が若い頃は、お墓という存在は偶像のようであり、

先祖に護っていただきたいからこそ、

高価な投資をして立派なお墓を立てる。

非常に宗教的であり、また、大きなビジネスだなぁ、と。

しかし、大人になったいま、改めてお墓のことを考えてみると、

なんと愚かな思考だったことに気がついた。




最愛の人が亡くなった時、

遺族は悲しみを何処に持っていけばよいのだろうか?

「人間、死んだら何ものこらないさ」

ある人が言った。

本当にそうなのだろうか?

人として生きてきて、喜び、また悲しみ、

人生の四季を経験し、また、なんらかの影響を周りの人々に与えてきた、

最愛の人が無くなったら、なんにものこらないのか?




いや、そんなことはないだろう。

形には残らないものが確実にあり、

思い出が沢山あるのだ。




亡くなってしまった後には、

大抵は、決まった通りの順序で、

お葬式があり、お墓に入る。

やはり、決まった石のお墓。



ここに、生きてきた証し、

故人の人生は観えない。

これはなにか悲しくはないだろうか?



僕は、いろんな方々の死を観させていただいたし、

お葬式にも、参列させていただいた。

一番、悲しいことは、

決まったお葬式の流れで、

決まった故人の略歴を話し、

決まったお経を唱えて、

参列者は御坊様の説法を

上の空で聞いていること。



もっと故人を偲ぶ形があると思うのだ。

この「光り墓」は、

とても個性的でもあり、

愛する人を失くした遺族の方々の慰めになる思い、

宣伝させていただくことにした。




どうか、動画をご覧になっていただき、

供養について、考えていただきたい。

本当の供養とは、

故人の為ではなく、

自分が生きてゆくためのものだと、

僕は思っている。






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