2012年6月4日月曜日

捨てること

人は、たとい全世界を手に入れても、
まことのいのちを損じたら、なんの得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには、
人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

マタイ福音書 16章26節 新改訳聖書


私達は、この世の中を生きている。

神から多くの恵みを頂きながらも、その恵みに気がつかずに、

自分の力でそのものを得たかのような振る舞いをしてしまう。

それが人間である。

ある時には、その間違いを認め、悔い改める人もいるが、

特に男性の多くは、己のプライドが高いゆえに、認めようとしない。


全世界を手に入れても・・・、というイエスの言葉は正しい。

男性は、ある一定の職務を継続すると、

すべての世界を知っているかのような自信が生まれやすく、

自分が如何に権威のある者であるかのような者、

という思いに捕われやすいようだ。

簡単に言えば、プライド。


しかし、神の目から観るならば、それは正しくない。

非常に虚しく、そして悲しいものだ。


マタイ16章では、シモン・ペテロがイエスに

「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えた。


神によって救われ、そして神の御心の道を求めつつ歩む。

それは多くのクリスチャンと呼ばれる一人一人が自ら

実践していることだろう。

しかし、その多くが、このような応答の仕方をしてしまうこともある。


するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。
「主よ。神の御恵みがありますように。
そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

マタイ福音書16章22節 新改訳聖書


いまは終わりの時代。古い価値観は過ぎ、

まったく新しい物事が到来しようとしている時代である。

今までの宗教的な価値観から、

もっともっと開放された、神による価値観が

与えられる時代に移行していることは、

今の私に示されていることである。


シモン・ペテロは、イエスを神の御子であることを信じ、

イエスの愛を受けて日々歩んでいた。

しかし、福音の全貌を、彼は見ていなかった。

(聖霊を受ける前だった為、霊的な目が塞がれていた、の方が正しいかな?)


神から贖われ、素晴らしい恵みの世界を味わい、

限りない喜びを頂いている私達は、

神のご計画の全貌を知る必要がある。


さて、私達が思い描いていた過去の《全世界》は、

己の両手で、やっと掴んだ、小さなプライドではないだろうか?

キリスト教会という組織の中で、色々な経験をしてきたのだが、

それは己のプライドを増幅させるばかりで、

神の御心を求めるという道から離れるばかりであった。

そんな小さなプライドを必死に掴んだところで、

私達は、永遠に生きて行けはしない。


神の御子であり、油注がれた方の手元には、

真実の意味での全世界がある。

神の永遠のご計画が、そこにある。

自分の手には掴められないほどに聖であり、

高価であるもの。

その全世界を、主イエスは私に見せてくれる。

そして理解できるように、導いてくださる。


主よ、あなたから与えられた、

まことのいのちを、損じることが無いように、

自分が作り上げた全世界・プライドではなく、

全能の神様がご計画された全世界を

知ることが出来るように、目を開かせて、お導きください。

神の御子であり、油注がれた方である、

主イエスのお名前によって、

アーメン

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